若かりし日の創業者萬財泰樹(以下、創業者)が「金型作りは一生の情熱を捧げられる仕事」と、戦後復興もままならない日本の“もの作り”の創成期に飛び込んだ金型業界。けっして平坦ではなかった道のりを弛まず歩き続け、やっとの思いで創業した西日本精機株式会社。

 技術を磨き、お客様・供給先様・社員に、情熱と愛情を注ぎ続け、地域社会に貢献できる企業に成長させ、2006年、後継者である萬財正樹に継承しました。

生い立ち

 昭和5年(西暦1930年)、山口県岩国市に6人兄弟の次男として生を受け、戦争で家を出ていた父や兄に代わり、農業・林業・畜産業などで家計を支える。

 終戦時は、学徒動員で広島県三次市の旧国鉄で働いたため、原子爆弾の投下直後の広島市内の復興に従事し、14~5歳の少年期にも関わらず、多くの惨状を目の当たりする。

金型業界との関わり

 終戦後、戦地より帰還した長男に家業を託し、28歳で北九州市にある妻の実家に移り住んだが、見知らぬ土地での職探しは、苦労の連続であった。

 そんな職探しに明け暮れていたある日、偶然目にした「プラスチック金型の共同経営者を求める」という新聞広告が人生の一大転機となり、金型業界へ身を投じる。資金調達など奔走し、小倉で金型会社を共同で設立したが、様々な紆余曲折の末、身を引くことを決断する。

一流の金型製造技術の習得を目指し上京

 退社後、『本場の東京で鍛えなければ高品質の金型は製造出来ない』という思いを実行に移すため上京し、当時一流といわれた金型メーカーに頼み込んで就職する。

 他の従業員が来る前に工場に行き掃除を済ませ、残業も喜んでするなど、必死の努力で技術と人望を得、最終的には役員就任の話もあったが、自分の夢を実現する為、40歳の時に北九州に戻る。

出資者を社長に門司で会社を立ち上げる

 北九州に戻って5年が経過した頃、ある農家の方から門司で金型工場新設の誘いを受けた、その方の出資により再び起業し、専務取締役として取り組む。プラスチック金型の需要が急増した時期で、業界自体が順調な時期ではあったが、会社の先頭に立ち、営業活動だけではなく、会社に仮眠用の簡易ベットを持ち込み、金型の設計から加工までをこなしながら、会社がより大きく成長するよう奮闘し、事実、会社は急成長を遂げる。

 しかし、起業して7年が経過した時、出資者との方向性の違いが決定的となり、会社を去ることを決意する。創業者、53歳。

三度目の挑戦でようやく長い苦労が結実

 現在の会社(西日本精機株式会社)は、門司の会社退社するにあたり、挨拶に伺った地元大手企業の社長より、『今後も金属の樹脂化続き、それには君の技術と経験が必要だ』との話をいただいたことに始まる。

 過去二度の苦い経験から、技術指導で生計を立てることを考えていたが、熱心な要請に心を動かされ三度目の挑戦を決意。

 そして、1983年、様々な方々のバックアップや好機にも恵まれ、西日本精機株式会社をスタートする。

思い通りに・・・

 金型の事がわかる者が僅か3名という状態でのスタートだったが、素人の新入社員を辛抱強く指導、また、将来性のある設備を絶えず導入し続けるなど、創業者が、あらゆる面に於いて思い通りの舵取りを行う。

 その結果、西日本精機は次第に競争力を高めていき、一度も赤字を計上する事無く、20年あまりで従業員70名を超える規模にまで成長させる。

後継者へ

 『社長にならなければわからない世界がある。』と、自分が指導できるうちに後継者に経営を譲るため、2006年末に第一線から退く。

 現在は、後継者の育成に注力し、目先の経営手法だけではなく、企業における“倫理観”などを継承。

そして、現在へ。